fatal


当事務所では設立以来、公益財団法人交通事故等育成基金様に賛助会員として大変微力ながらご協力をさせていただいておりますが、弁護士丹羽が、同基金を利用いただいている主に旦那様を交通事故で亡くされたお母様方に向けたメールマガジン「おひさまサークル」に、平成29年10月から平成30年5月まで特別寄稿いたしました内容をご紹介いたします。
弁護士丹羽の交通遺児としての想いや、女手一つで育ててくれた母への思い、何より大切な旦那様を突然不幸な事故で失われたお母様方に対して、亡くされた旦那様や残されたお子様とどのように向き合っていくかなどのメッセージを寄稿させていただきました。


おひさまサークル第7号(平成29年10月号)~生い立ちと母のこと

私は名古屋市で交通事故被害者専門の弁護士をしております丹羽洋典と申します。
私も2歳の時、父を交通事故で亡くした交通遺児であり、基金の賛助会員として、大変微力ながらご協力させていただいています。
交通事故被害者の方々は、突然の交通事故で大切なご両親を亡くされたり、ご自身も被害に遭い、時には仕事も失い、心も体も非常に辛い状況に立たされてしまうにもかかわらず、十分な知識もなく、味方になってくれる人もいない中、しっかりとした補償を受けることもできないという非常に弱い立場に立たされてしまいます。
そこで、私自身も交通事故被害者であり、同じ立場で少しは被害者の気持ちに寄添えると思い、また、この仕事を全うすることが父の無念の死に何らかの意味をもたらすことになるのではと信じ、交通事故被害者の方々を専門に救済する法律事務所を作りました。

今回、ご縁があってこのメルマガに寄稿させていただくお話をいただきましたので、ずっと私を育て、支えてくれている母のことをお話ししたいと思います。

私には父の記憶は全くありません。
2歳の時に父を亡くしたので当然と言えば当然です。
父の葬儀では、何もわからず、たくさんの人が集まったことで、一人はしゃいでいた幼い私の姿に参列者の皆様が涙していたとのことでした。

幼少のころから、母は私と3歳上の兄を連れて、長時間車を運転し、海や山、遊園地など本当にいろいろな所に連れて行ってくれ、沢山の経験をさせてくれました。
私が大人になって近所の方から聞いた話では、母は運転免許を持っていなかったのですが、父の死を機にすぐに免許を取りに行ったそうです。
周囲からは、父を交通事故で亡くしたばかりなのに、免許を取るなんて何事だと諫められたようですが、母は、この子たちに、父がいるのと同じように、何不自由なくいろいろな経験をさせてあげたいと答えました。

母からは、私がしたいことを反対されたことはほとんどなく、自由に好きなようにさせてくれました。
大学にも行かせてくれましたし、バイクも車の免許も取らせてくれました。
ただ、バイクや車の運転には、うるさいほど何度も何度も気を付けろと言われてきました。
母の運転も、高速道路で他の車にどんどん抜かされていくほど慎重でした。

実は私は父の事故のことを詳しく母から聞いたことはありません。
この仕事を始めてから、一度気になって、母に、父はどういう状況で亡くなったかを聞きましたが、笑って「もう覚えていないわ。」というだけでした。
正直に言いますと、私はこれまで父がいないことの辛さや不自由さを感じたことはありませんでした。
小学生の頃など、勉強や運動などで結果を出すと、先生や父兄の方から「お父さんがいないのにすごいね。」と言われることが良くありました。
私にはその意味が全く理解できませんでした。
そもそも物心ついた時から父はいませんでしたし、親は母だけなのが当たり前でしたから。
ずっとそんな風に思っていました。

しかし、大人になって初めて気づきましたが、母は父がいないことの弱音や辛さを一切口にしたことはありませんでした。
母は、私たちが父を亡くした不幸な子だと思わせないように、辛く悲しい気持ちを一切私たちの前では見せませんでしたし、恨みがましいことをいうことも一切ありませんでした。
ですから、今になって思えば、私たち兄弟は、不幸な事故で父を亡くしたこと、父がいない可哀そうな母子家庭であること、そんなことは微塵も頭に過ぎったことはなかったのだろうと思っています。

一方、子供のころ(今でもですが)の父の存在は絶対でした。
何しろずっと空から私の様子を見ていて、何か悪いことをすれば、必ず罰を与えると思っていましたから。
私の人生は紆余曲折ありましたが、父の存在が私の途を誤らせない歯止めになっていました。

私は、大学を卒業して7回司法試験を受け、ようやく合格できました。
母に、今年もまた落ちたと報告しても、「来年また受けるんでしょ。頑張りなさい。」というだけでしたので、母は私が試験に合格することなどあまり関心がないと思っていました。
そんな私もようやく試験に合格し、近くの天満宮にお礼参りに行った際、沢山かかった絵馬の中で、一番上のど真ん中にひときわ目立つ絵馬があることに気づきました。
そこには、大きな字で「今年こそは絶対合格!」と書かれていました。
母が書いたものでした。
とてもびっくりして、家に戻って母に聞くと、「毎年祈願にいっていたのよ。毎年来るから、神社の人が一番目立つところにって、あそこにかけてくれたの。プレッシャーになるといけないと思って、あんたには言ってないけど。」と笑っていました。

当たり前の日常生活を送っていただけなのに、別れを告げる間もなく、突然最愛の人をこの世から奪う交通死亡事故は、普通の人にとって最も不幸な出来事です。
これから待ち受ける困難の全てを事故のせいにすることもできますし、これ以上傷つかないために、時にはそれも必要なことです。
ただ、起こってしまったことはどうしようもないのもまた事実です。
残された者がいかに前を向いて、これからの人生を歩んでいけるか、最愛の人の凄惨な死や遺志を無駄にせず、生きた証を残すため、残された者に何ができるか、それが一番大切なことなんだということを母から学びました。

弁護士にとっては、いかに高い賠償金を得られるかが評価の対象です。
しかし、私は、交通事故被害者の方々がいかに前向きに生きていけるか、事故の前と同じような笑顔を取り戻すことができるか、少しでもそのお手伝いができたらと思い、日々業務に励んでいます。
そして、私と同じ交通遺児の方々の笑顔の元になればとの想いで、これまでも、これからもずっと貴基金の会員として、微力ながらご協力させていただければと考えています。


おひさまサークル第9号(平成29年12月号)~トークテーマ「命日の過ごし方について」


本メールマガジン第7号にて、母のことを書かせていただきました弁護士の丹羽です。
私は、交通事故被害者事件を専門に扱っており、死亡事故も多数お受けしていますが、死亡事故の場合、突然の不幸な事故で最愛の方を亡くした遺族の方が、いかに前を向いて、元の生活を取り戻していただけるかに最も注力しています。
 
交通死亡事故の場合、事故直後から遺族の方々には余りにたくさんのことが降り注ぎます。
人生で最も大切な方を亡くし、落ち着いた環境で悲しみに暮れる間も共に歩んできた人生を振り返り、もう一度心に深く刻み込むこともできず、亡くなった理由を詳しく知ることもできず、葬儀の段取り、捜査機関からの事情聴取や場合によっては刑事裁判への参加、命を奪った加害者や保険会社担当者からの度重なる連絡、保険金請求や相続手続き・・・。
遺族の方々は、生活の不安や手続きの流れなど、先がどうなるか全くわからない不安のどん底に叩き落されます。
私は弁護士として、これらの法的手続について、それがどのような意味を持つか、この先どうなるかわかりやすく説明し、可能な限り代行し、平穏な環境の下で、遺族の方々にとって最も大切な、亡くなった方とのかけがえのない思い出と悲しみの時間を提供することが重要だと考えています。
 
私は、亡くなった方にとって一番悲しく辛いのは、ともに人生を歩んできた人々の記憶から消え去ってしまうことではないかと考えています。
時の流れは残酷で、過ぎていく毎に、大切な思い出も奪っていきます。
だからこそ、遺族の方にとって、生きていた証が鮮明な時こそ、その方の一言一言、一挙手一投足、写真やビデオに残っていないともに過ごした苦楽・悲喜の思い出を振り返り、心に刻み込んでいただくかけがえのない時間なのではないかと思っています。
 
ある遺族の方は、こんなことを話してくれました。
「先生、時が忘れさせてくれると言いますけど、私はそうは思いません。私がいつも思うのは、あの人とはもう3年も会っていないということばかりなのです。」
いつまでもそう思ってもらえることが、亡くなった方にとって最も幸せな事なのではないかと私は考えています。 
そして、事故のことや大切な人との沢山の思い出を抱えてこれから生きて行くんだという気持ちになった時こそが、前向きになれた時かもしれません。

遺族の方々が、数々の困難を迎えたとき、決め手になるのは亡くなった方ならどうしてくれるか、なんて言ってくれるかを考えることかもしれません。
子が反抗した時なら、「俺が先に逝ってお前に苦労ばかりかけて本当に悪かった。ただ、あいつには俺がずっと空から見てるからな、とだけ伝えておいてくれ。」と言うかもしれません。
子供を私学に行かせたいけど、お金の心配があるかもしれません。
その時は、「あの子が私学に行きたいと言ってるなら行かせてあげて欲しい。私が学費を出せず、君を働きに出させることになって、本当に申し訳ない。ただ、私が君たちの頑張りを必ず報われるようにするから、しばらくは我慢してくれないかな。」と言うかもしれません。
場合によっては、再婚したいと思いながら、あの人に申し訳ないと思う時もあるかもしれません。
その時は、「僕のことをずっと今まで考えてきてくれて本当にありがとう。君と子供たちが幸せなら、僕もその方が良いと思う。ただ、僕のこともたまには思い出してくれよ。」と言うかもしれません。

辛く悲しい時、自分ではどうしようもないと思ったときは、あの人のことを思い出し、お話しされてみてはいかがでしょうか。


おひさまサークル第12号(平成30年5月号)~トークテーマ「(父親の死の)子への伝え方」


愛知県名古屋市で、被害者側交通事故専門の法律事務所を運営しております弁護士の丹羽洋典です。
私も2歳の時に父を交通事故で亡くした交通事故遺児として、今回のトークテーマである「(父親の死の)子への伝え方」について、この立場から私の経験に基づきお話させていただきます。

私が父を亡くしたのは2歳の時でしたので、事故のことばかりでなく、父の記憶すらありません。
また、以前にもお話ししましたが、母は父の事故のことについて多くは語りませんでしたので、母からいつの時点で、父が事故に遭ったか聞いた記憶もありません。
しかし、当たり前のように自宅に父の仏壇があり、月命日には「お寺さん」が読経に来てくれ、父のお墓参りにいく中で、自然に父がいないことを自覚していました。
そして、おそらく幼い私が、母に、「お父さんはどうしていないの。」と聞いたのでしょう、いつの間にか父が交通事故で亡くなったことを知ることになりました。

幼いころから父がいないことが当たり前でしたので、父が交通事故で亡くなったことをはっきり自覚してきた時でさえ特に何の感情も生まれませんでした。
ただ、母は、車の運転には特に慎重で、また、外出時に車に気を付けることには口うるさく言われてきました。
また、今でもそうですが、いつも天から父に見られている気がして、悪いことはできませんでした。

母との関係が難しくなった思春期には、母とじっくり話をすることもなく、父の話をすることはほとんどありませんでした。
ただ、自宅に飾ってある父の絵をきっかけにして絵がとても上手な人であったことや、押入れからたくさんのカメラを見つけた時に、カメラ店に勤務していていたことなどを聞いたりするなど、自分なりの父親像ができつつありました。

成人になると、父がどういう人柄だったのか気になることもあり、ときおり母に父のことを聞くようになり、カップラーメンが登場したころにはカップラーメンばかり食べていたことや、見栄っ張りな人であったことなど具体的な一面を伺い知るようになりました。
20代のころ、母と兄の3人で、車で旅行中に国道を走っていると、おもむろに母が「この辺でお父さんは事故に遭ったんだよ。」と話したことがありました。
この時も特に感傷的になることはなく、しばらく父の話で盛り上がりましたが、この時に私は初めて父が事故に遭った場所を知りました。

今では、むしろ妻の方が父に興味があるようで、私の母に父のことを色々聞きますので、それで私の知らなかった話を色々聞くようになりました。
父は母の勤務先に出入りしていた業者さんで、父が母に話しかけようと追いかけてきて、それを知らずに母は父を扉で挟んでしまい、これを機に父と交際することになったという話も最近聞きました。

私としましては、父が交通事故で亡くなったことやどのようにして父が亡くなったかについては、あまり関心がなかったのかもしれません。
むしろ、母があまり進んで父のことを話さなかったことから、まだ母の記憶が新鮮なうちに、父がどういう人となりで、どういう価値観でどのように私たちに育って欲しかったかをもっと母に聞いておきたかったという思いでいます。

このメルマガの読者の皆様には、かけがえのない旦那様のことを思い出すだけで辛く悲しくなるという方もたくさんおられると思います。
ただ、亡くなった方にとっては自分のことを忘れ去られるのが一番悲しいことです。
出来る時でいいですし、無理にお話する必要は全くありませんが、お子様にはできるだけたくさん、お父さんのお話をしてあげて欲しいなと考えています。
そうすれば、お子様の心の中で、より生き生きとお父さんは生き続けることになるはずです。

事故のことはお子様に「何でお父さん死んじゃったの。」と聞かれたらで構わないと思います。
その時もあまり細かい話までする必要もないとも思っています。
そして、お子様に事故の話をする際には、遺族の皆様がこれから絶対に交通事故の被害者にも加害者にもならないよう、「あなたには絶対に交通事故に遭わせないから」との強い気持ちを伝えて、交通ルールを守って、車やバイク、自転車、歩行中にも十分気を付けるよう口うるさくお話しいただければと考えています。


シェアする